オンライン中古CDショップ サンマルチノ 日記
新着案内ついでに日記

11 March

3年前の今日

今日で東日本大震災から3年。
未だ復旧には程遠い被災地の皆様方、
避難生活を強いられ続けている皆様方が居るというのに、
最優先事項ではなくてはならないはずの被災者の救済が、
その他のどうでも良いような事の後回しにされ、
福島第一原子力発電所は未だアンダーコントロールされず、
問題は山積みで、
憤ったり悲しんだり笑ったり悩んだり喜んだりしながらも、
日常という現実は毎日続いている。

被災者の方々と比べると、
被害という程の被害ではなく、
大した事はそれほど無かったのだが、
3年前に本ブログに何を書いていたのかと、
チェックしてみても、
自らの身に起きた事を書いたものが見当たらない。
書いたつもりだったけれど、
書き上げずに途中で放り出していたようで、
その書きかけの文章が見つかったので、
通常は新着更新の際に更新する本ブログであるが、
今日は特別に以下に改めて加筆、修正して掲載しようと思う。
(新着更新は明日、ブログも別途更新致します。)

3月11日(金)。
その日は残念な事に発送が一つも無く、
当日更新する予定だった新着CDを再生確認している途中だった。
あまり安全上よろしく無い保管方法であるため、
常日頃から、
どうにかせんといかんとは思っていたものの、
面倒臭いやら、
時間が無いやらで、
CDを細かくジャンル分けして保管している段ボールは、
堆く積み上げたたままであった。
築20年を超えた古いマンションの7階にある当店は、
震度3レベルで、
結構嫌な揺れをして、
下手をすると、
この段ボールが上から何個か落下する事がある。

ミシミシと音を立て、
ゆっくりと揺れだした昼下がり。
初めはゆっくりだったため、
積み上げている段ボールが落下しないように、
手で押さえていたのだが、
次第に強くなる揺れに、
これはまず出入り口を確保し、
逃げる準備をしなくてはと、
段ボールを持つ手を離すと、
逃げ出す背後で段ボールが倒壊。
心臓高鳴る中、
ドアを開けると、
丁度マンションの屋上は携帯電話のアンテナ工事中で、
目前のクレーン車が激しく揺れ、
地上のテニスコートに居た人達も、
しゃがんでいるのが見える。
ビルが倒壊するような事にはならずに済んだが、
部屋に戻ると、
以下のような状態。

2011年3月11日事務所内

当時はまだ要介護3レベルの認知症で、
簡単携帯を何とか受ける事もでき、
会話も普通に出来ていた自宅に居る母に、
すぐに電話してみると、
泣いてはいるが、
飾っていたこけしが落ちてきて、
頭に当たった程度で、
怪我は無い模様で一安心。
この頃は、
帰宅する際は母の携帯に電話して、
今から帰る旨を伝える連絡をしていたのだが、
母は電話を切る際にボタンを長く押し過ぎるのか、
携帯の電源自体を切ってしまう事がしょっちゅうだったので、
いつも電話を切る時に注意しなくてはいけなかったのだが、
この時は流石に自分も動揺していたせいか、
この一言を言うのを忘れたため、
見事に母は携帯を電源ごと切ってしまい、
以降、母の携帯は繋がらなくなってしまう。
この後、自宅の電話には母の安否を気遣う民生委員の方からも電話があったらしく、
その電話には応対できた母も、
固定電話の受話器をきちんと元に戻す事ができなくなっていたので、
家に電話をしても話し中のままという事態になり、
以降、帰宅するまで母には一切連絡が取れなくなってしまう。

しばらくすると静岡の弟からも電話があり、
「凄い!ウィルコム通じるな」と、
安否を気遣うよりも第一声がそれかよと思いつつ、
ウィルコム・ユーザーだったので気付かなかった、
他の携帯会社の携帯は繋がり難くなっている事を知る。

自分が体験した中では、
これまでで一番酷い地震だと思ったが、
震源地はこちらでは無く、
東北であった事をラジオで知る。
この時点では、
まだ被害がどれほどのものかも判らず、
幸い再生確認中のCDは鳴りっ放しで、
PCも消えてはいなかったので、
停電にはなっていないようだし、
電車が復旧するのにも少し時間がかかるだろうと、
取り敢えず段ボールの片付けを開始。
この時はまだ夕方頃には、
電車は復旧すると思っていたのが、
その間も余震は続いているし、
正直恐怖心は残ったまま。
ラジオはつけっ放し、
ネットで情報を仕入れると、
早々にJRは終日運休を決めたとの事。
これは歩くしかないか!
と覚悟を決め、
一路、自宅まで。

淵野辺駅のタクシー乗り場は人が溢れ、
事務所から自宅までは、
町田街道ルートで帰れば少しは近かったのだが、
何しろ状況が判らないので、
途中の駅からタクシーとかバスに乗れるのでははないか?
と淡い期待を抱き、
取り敢えず隣りの古淵駅へと向かう。
古淵に向かう人は結構いたが、
古淵から町田へと歩く人は全然居なくなり、
畑の中に迷い込んだりしながら、
遠目に見える町田駅らしい雰囲気の明かり目指し歩く。
行き交うタクシーや車を横目に、
何とか町田駅に到着。
店によっては開いてる店もあるようだが、
電気が消えている店もあり、
開いている店も何処も満員。
それより早く家に帰って、
母がその後どうしているかを確認せねばと焦るも、
バスやタクシーの長蛇の列を眺めると、
歩いてどのくらい時間が掛かるかは判らないものの、
並んで待つよりは歩いた方が幾分早そうだし、
何より既に1時間以上歩き、
アセカキストはすっかり汗だくで、
それでいて非常に寒い夜で、
こんな中、何時間も並んでたら絶対風邪をひくと想定した事もあり、
再度、自宅まで歩みを進める。
途中、コンビニで夕飯を買って帰ろうと思うも、
棚は空。
結局トータル4時間弱かかり、夜の9時頃に自宅に到着。

歩いている途中は電気が消えているエリアもあったものの、
自宅付近は外灯も家々の電気も点いているのに、
何故か自宅は真っ暗。
鍵を開けて中に入ると、
暗い部屋の中に蹲り、
電気もつけず余震に震え泣いている母。
電話をしてから既に6時間以上も経過し、
地震直後は近所の人が声をかけに来てくれたようだったが、
その後、続く余震の中、
電気もつけられずに一人で泣いていたと思うと、
何とも不憫ではあったが、
怪我も無く無事である事を確認し一安心。

というのが、
下書きに残っていた3年前の今日の模様を、
現在の記憶で加筆、修正した文章である。
この時点では津波に関して詳細は知らず、
原発事故も知らないし、
この後数日は電車も動かず事務所に行けず、
計画停電があったり、
余震は長らく大きめのものが何度も続いたり、
色々とあったが、
認知症と判ってからは安定していた母の容態が悪化していったのも、
この年の夏以降で、
多かれ少なかれ、
この日の不安感が影響したであろう事は、
想像に難くない。
それまでの介助レベルの介護から、
本格的な介護生活という、
憤ったり悲しんだり笑ったり悩んだり喜んだりしながらも、
日常という現実は毎日続いている。
13:10:58 - sammartino - - TrackBacks

05 May

お別れは突然やってきて...

先週土曜日、
いつものようにラジオ
『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』を聞いていた。
ギャラクシー賞「DJパーソナリティ賞」の受賞を決め、
いつにも増して乗っている宇多丸の話しの途中、
ニュース速報が入ったとの報せ。
「あ、僕が読むんですか?」
なんて言っていた宇多丸が呟く。
「マジかよ...。」
「歌手の」
この時点で察しの良い自分は、
もうその先は読まないでくれ!
と思ってしまった。
それでも宇多丸は涙を堪える声で、
忌野清志郎の訃報を読み上げたのだった...。
まるで身内や親しい友人が亡くなったかのように、
身体が虚脱感に包まれる。

高校一年の時、
悪友がRCを教えてくれた。
「日本のロックなんて」という自分に、
「いいから聴いてみろ」と、
『ラプソディ』のテープを借りて以来、
清志郎には一体どれだけのものを貰っただろう。
愛や勇気や希望?反骨精神?
言葉にするとどれも陳腐だが、
まさにお金で買えないものを貰ったんだ。
自分にRCを教えてくれた悪友は、
とうの昔にRCも卒業という感じで、
普通の大人になってしまったが、
イキがったりビビったりしながら、
烏合の衆を軽蔑しながら、
いつかきっとわかってもらえるさと自分で自分を励ましながら、
自分は未だに卒業できずに、
こんな稼業を続けている。

「オレとしては忌野清志郎が亡くなったコトは受け入れないから!」
清志郎の古くからの悪友、
泉谷しげるは駄々っ子のような、
それでいて彼らしい愛溢れる言葉を捧げている。
自分としても、
矢張り冥福をお祈りしますとか、
そのような事を安易に書きたくない気分である。
だって、これからも清志郎の歌は絶対に自分の傍にあり続けるんだから。

ずっと夢を見させてくれてありがとう。
これからもどうぞよろしく。

22:20:04 - sammartino - - TrackBacks